【追記】2024.3.15
ADHD用の薬であるストラテラを飲んでみての感想を書きました。
ストラテラは創造性が減る、なくなることがあるという報告がよくなされており、創作をする人にとっては不安要素が大きい薬です。
創作に差し障らないADHDの薬でいうと、コンサータというものがあるそうなのですが、
コンサータは持病を悪化させる懸念があることから
ストラテラを処方していただくことになりました。
そんな状況で、薬を飲み続けることへの不安を自分なりに整理してどう向き合っていくかを考えた記事です。
また、心境や経過に変化があれば、ご報告しようと思います。
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ここ数か月のうちに、自分の内面に大きな変化がありました。
思考の動き方がシンプルになったという意味での、前向きな変化でした。
それは、発達障害の薬を飲むようになったことによるもので、私の力ではありませんでした。
飲み始めて劇的に変わるというより、飲み続けていたらいつのまにか変わっていた。という感じです。
自分の努力とはいったいなんだったのかと思えるほど、あっさり思考がまとまるようになりました。
※一つ補足しておくと、薬は補助的なものに過ぎないので、自分が生きやすくなるためにしてきた努力と薬効が相互作用して実っている側面もあると思います。
ただ、懸念もあります。
落ち着いた思考の中で、時折、湧いては消えを繰り返し、考え続けていることがあります。
内面が変わったことで、今までの「よかった部分」は失われてしまうかもしれないけど、それでいいのだろうか。と。
体感としては「悪かった部分」による不利益のほうが圧倒的に大きく、その部分が改善されたことによる生きやすさは代えがたいものがあり、薬をやめるという選択は易々とはできないのですが、いざ問題の特性が弱まってみると、なにか大事なものまで失ってしまったのではないかと怖いくらい寂しい気がしてしまうのです。
それで、答えのない答えを時折思い出したかのように探してしまっています。
それも、数秒で考えるのをやめてしまうのですが。それが楽なところでもあり、複雑な思いです。
すべては選べないし、何を選んでも後悔は残る。多分そういうもの。
私はずっと「穏やかに暮らしたい」と思っていたのに、いざ脳内の修羅(衝動、多動)が弱まり平和が訪れると、アイディアがあまり浮かばなくなりました。
失ってみて初めて分かる、当たり前のありがたさ。
しかし、今までの、生活が狂うほどの苦しみをまた味わってまで、当たり前を取り戻したいとは思えません。
なので、修羅によって保たれていた均衡を、今後は別のやり方で保っていけば良いのかもしれません。
今までのように修羅によって生まれるアイディアに頼るのではなく、
しっかり「やるぞ」という気持ちでインプットとアウトプットに励むやり方です。
幸いにも、雑念がなくなった分、機動力、集中力が上がりルーティンワークの効率はかなり良くなったので、能動的にアイディアを出す時間を設ければなんとかなるような気がします。
絵も作業自体はルーティンみたいなところがありますし、「衝動」や「多動」が弱くなった反面、そこを根源としないパワーをコンスタントに持てるようになったというのは利点です。
私は修羅という道具に頼り切った生活をしていたがために、
いきなりそれが使えなくなって、代わりに新しい道具を渡されて、使い方がわからず、困惑しているのだと思います。
だから、新しい道具に慣れていく必要があります。
仮に、もし本当に何も描きたくなくなっても、好き嫌い関係なく、ルーティンとして描いてるものもあるので、散歩みたいな感じで、描くことは続けていけたらいいなと思います。
色々整理してみると、今くらいがちょうどいい塩梅なのかも。と思ったりもします。
今までアイディアが湯水のごとく湧き上がっても、それをうまく取捨選択し生かすこと、やりきる事は困難だったし、生活に支障が出てしまうくらいのめり込んでしまうのは完全にやりすぎでした。(近年は意識的に抑えていました
まあ描かないなら描かないで、そのまま過ごせばいいのかもしれません。
放っておいても、望んでなくても、きっとまた筆を取る。
死ぬまで描かなくても、それはそれで、そういう人生だったというだけです。
アイディアが浮かぶこと、形にすることは、幸せを感じるための1つの「手段」にすぎません。
手段が目的になってしまう事は、私の中で一番苦しく、避けなければいけないことだと思います。